尾崎行雄とは

尾崎行雄とは


尾崎行雄は、真の民主政治と世界平和の実現にその一生を捧げた政治家である。
若くして自由民権運動に身を投じ、保安条例により東京退去を命じられ、海外(米国・英国)に渡るが、国会開設(1890年)とともに衆議院議員に選ばれ、以来、議席にあること63年(連続当選25回)、世界議会史上の記録を打ち立てた。
素志は藩閥軍閥の打破、民主政治の確立にあり、あらゆる権力の弾圧にも屈せず、常に民衆の側に立って闘った。その雄弁は天下に鳴り、政権擁護運動が起こると人は彼を「憲政の神様」と呼んだ。
また、軍国主義が一世を支配するに及んでも、平和の信念を曲げず、軍縮を説き、単身全国遊説を始めるとともに、三たび辞世を懐にして議政壇上に立ち、国論に警告することをやめなかった。そして晩年は、廃藩置県ならぬ廃国置州という考えに基づく「世界連邦」の建設を提唱。議会政治の父と仰がれつつ、一生の幕を閉じた(享年95歳)。

咢堂(がくどう)とは、尾崎行雄の雅号(ペンネーム)である。尾崎は青年時代、「学堂」と名乗って執筆活動をしていた。1887年12月、政府の発した保安条例によって東京退去を命じられ、愕然としたことから「愕堂」と改める。
そして50歳頃より、りっしんべんを取って「咢堂」とした。

尾崎とワシントンの桜

尾崎は東京市長時代(1903~1912年)、日露戦争の際に米国が日本に対して好意的だったことに非常に感謝していた。
1909年、米国大統領タフト氏夫人が、日本の桜を米国の首府、ワシントンのポトマック河畔に植えたいという希望を知り、尾崎は2000本の苗木をワシントンに送った。しかしその苗木は、その後の検査で害虫が発生され、すべて焼かれてしまった。残念に思った尾崎は、健全な苗を育てさせ、1912年、今度は3000本を送った。苗木は無事育ち、現在も見事な美しさでポトマック河畔の春を彩っている。

「人生の本舞台は常に将来にあり」

人は何歳になっても、それまでの人生は序章にすぎず、これからが本舞台なのだという意味である。
人間にとって知識と経験ほど尊いものはなく、その2つは年毎に増えていく――すなわち人間は年をとればとるほど、その前途は輝かしく多望であるという尾崎の人生観である。
尾崎行雄は、75歳の時(1933年)、三重県を遊説中にひどい風邪と中耳炎にかかり、その病床で「自分はこれまで何をやってきたのか」と自省し、この思いを抱くに至った。

尾崎の「二つのフセン」

尾崎の思想の中核には、二つの「フセン」がある。「普選」と「不戦」である。
普通選挙に基づく民主政治の確立と、軍縮・世界平和の実現を目指した尾崎。第二次世界大戦後、民主主義と平和主義を謳った日本国憲法ができたことを尾崎は歓迎した。しかし、その憲法と国民の精神がくい違っていたのでは、制度は健全に運用されない。民主主義と平和主義の精神を、国民一人一人が自らのものにすることの大切さを、尾崎は終始問いつづけた。

尾崎咢堂翁五訓

一、 人生の本舞台は常に将来にあり。
二、 すべての虚偽と迷信を廃し、科学的な合理主義を第一として判断せよ。
三、 すべての問題は力闘によらず、理闘によって解決せよ。
四、 世人の幸福を増す言行はみな善事なり、
これを減らす言行はみな悪事なり、これぞ善悪の標準なり。
五、 戦争の絶滅を期し、世界連邦の設立に協力せよ。
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